ストーリー
京都の唐紙工房「唐長」は、和紙に文様を手摺りする唐紙を400年間継承してきた。その手仕事の現場から、本作は始まる。
植物文、雲や星を表す天象文、渦巻きや波文などが刻まれた江戸時代の板木に、泥絵具や雲母を載せ、和紙に文様を写していく。その反復によって生み出される唐紙の、息をのむような美しさ。あるがままの自然のかたち、動き、リズム、色合い。文様と、自然の「かたち」や「気配」をカメラは丁寧に追っていく。
葵祭や祇園祭、寺社や茶事の空間に息づく文様。1万年余り前のイタリアの線刻画や古代ローマの聖堂を飾るモザイク。北海道のアイヌの暮らしに受け継がれている文様。まるで文様に導かれるように、時空を超えて旅は繋がっていく。
エルメスのアーティスティック・ディレクター、デザイナーの皆川明(ミナ ペルホネン)、美術家の戸村浩は、自然からのインスピレーションと、自らの創作について真摯に語る。密やかに行われるアイヌの儀式や山の神への祈りは、人と自然と文様との関係性を、より鮮明に浮きあがらせる。
小さな京都の工房から多層的に拡がる文様を巡る旅の記録が、私たちが忘れてしまった大切な感覚、全人類の古層とのつながりを思い出させてくれる。
コメント
みなさんは、明けの明星である金星の地球から見た軌道と、薔薇の花のかたちが相似形であることをご存じだったでしょうか。天なるものと地なるもの、この自然の中には美しい基層となる「かたち」があるようなのです。
どうもそれは誰が造ったというわけでもなく、この世界の深いところから「おのずから」生じてきているようです。
そして自然が生み出す物質の「かたち」、文様は僕たちの心を動かし惹きつけ、僕たち人間が作り出す事物の文様とも相似し響きあっています。夢想するに、フィシス(物質)もプシュケ(魂)も同じ自然が生み出すパターン、秩序の二つの側面なのでしょう。
このドキュメンタリーは人の手が作り出す文様を繊細に映し出します。しかしそれは人の魂と物質が未だ分かれる前の、あるいはその二つを架橋する見えざるコスモスをも透視しているのです。魂と物質の母体で生じ反復し流転する存在のおおもとを、この荒々しい時代に見つめることはとても大切なことだと僕は思っています。
鏡 リュウジ様 占星術研究家
『フィシスの波文』は、江戸初期から続く京都の唐長の唐紙、そしてそれを作る技を繊細な映像で捉えたものです。
レンズの眼は、肉眼では捉えられないような板木の陰影や絵具の盛り上がり、そして微細な手の動きを逃すことなく捉えます。さらに京都の唐長の文様から出発して、文様の人類史と言ってもいいような拡がりを見せていき、古今東西の人間が作ってきた文様を徹底的に美しい映像で私たちに示してくれます。
それを支えるのが、フレッド・フリスによるサウンドです。特に映画中盤の岩絵群に続いて中世の聖堂の内部にある装飾がモノクロームで写し出されていくシークエンスでは、ギターという楽器の可能性を極限まで追求してきた彼の紡ぎ出す音が、画面の漆黒と呼応するかのように、かつての人間たちが遺した文様あるいは生の徴を描出していきます。
この幻惑的な美しさは、観る者の身体に沁みとおっていくかのようです。この映画が、日本国内のみならず、ぜひ世界の人びとに見られることを心から望んでいます。
佐藤 守弘様 同志社大学文学部教授 視覚文化&メディア研究
映画「フィシスの波文」に魅了されました。
徹底的に余分なものを排除した演出と美しい映像。 映し出される様々な文様。その形を辿る旅から見えてくる世界との繋がり。文様が語る宇宙の概念。
過去から現在へ、そして未来へとつながっていく形の物語。
音楽は、音の一つひとつが、文様のように、小さな塊となって降り注いできます。映像と音に包まれながら、静かに零れてくるメッセージを感じることができます。日常で当たり前に見ていた形に、新しい魅力を発見することができます。
映画「フィシスの波文」、ぜひ多くの人に観ていただきたい作品です。私が得た感動を共有できたら嬉しいです。
茂野 雅道様 映画音楽家
決して多くを語らない登場人物から伝わるのは、濃密な気配である。
ときにそれは言葉より雄弁である。
本作はどこか懐かしい文様という反復した図形を写しながら、宇宙の神秘にまで辿り着こうとしているのではないか、答えなどでないというのに。
だからこそ我々はこのシンプルな文様に惹かれるのかもしれない。
天地、万物からなる途方もない物語を、ぜひ映画館で体感して欲しい。
「ひとつが動くとすべてが動く」(本編より)
この映画が動くことによって、どんな連鎖反応が起こるのか楽しみでならない。
佐藤 広一様 映画監督
映画「フィシスの波文」を拝見し、文様とは、この世界ができたときから地球上にあったものなのだと改めて実感しました。
唐長11代目当主・千田堅吉さんの本『京都、唐紙屋長右衛門の手仕事』を企画・編集した際、多大なご協力をいただいた河合早苗さんが、今回このようなすばらしい映画をプロデュースされたことに感無量です。
長年磨きぬいた職人の手による唐紙文様は、微妙な顔料の濃度やかすれ具合など、緻密に作られながらも二つ同じものはない貴重なものです。
ユーラシア大陸を横断する長い旅の果てに日本に到達した文様が、京都の水に磨かれ、洗練された唐紙文様となり、宮中や神社仏閣、市井の人々の暮らしを彩ってきた歴史。
大陸の西と東、アイルランドのケルト文化と日本の唐紙文様が結び合うダイナミズムに震えました。太古からつづく文様の息吹を感じ心に灯がともる体験が、多くの人に届きますよう祈っています。
三田村 美保様 株式会社NHK出版
唐紙文様の唐長さんが400年前の板木を手で撫でながら、摺る行為の映像から文様を巡る旅が始まる。
この映画をもし岡本太郎さんが観ていたら、どんなことを呟くだろう。きっとこんなことを述べたかもしれない。
「人間は悠久の昔から、瞬間瞬間に、限りない夢をひらきながらも生き続けて来た。生活の中のすべて ― 天を仰いでも、大地にふれても、樹、岩、水、動物。自然のあらゆるものから、さまざまのイマジネーションがわきおこり、それがやがて凝結すると、新しいイメージ、形が生み出されてくる。」(『藝術新潮』1978年7月号P33「宇宙を翔ぶ眼」 新潮社刊)
唐長の唐草文様は植物や波や雲など自然の形象が文様と化し、板木に込められている。唐とは異国という意味があり、三つ巴や法輪の文様は時空を超え中国、ペルシア、中近東、ヨーロッパのネットワークとなる。さらに水の波文から渦巻の文様はケルトの『ケルズの書』に繋がるだけでなく、古代の文様へと繋がる。
岡本太郎さんが雑誌『みづゑ』に「縄文土器論」を書いたとき、もう一つのタイトルは「四次元との対話」だ。縄文土器の文様も日々の営みから生まれた「人々に生命力」を与える形象なのだろう。
唐長のお二人は日々、400年前の650種類にも及ぶ板木から様々な文様を摺りながら、折々の季節の自然やそこから時空を超えた宇宙との「四次元の対話」を繰り返しているに違いない。
仲野 泰生様 京都場館長(元川崎市岡本太郎美術館学芸員)
唐長さんとは、となみ織物さんからのご縁にて以前作品でコラボレーションさせて頂きました。様々な文様の唐紙を拝見し、数種の唐紙を用いらせて頂き制作しました。
文様はそれぞれに長い歴史や意味があり、想いを伝える事のできるデザインであり、世界共通のモノなんだなと改めて感じています。
唐紙は規則正しく並ぶ文様であるのですが、ぬくもりも感じます。代々受け継がれている板木に、温度や湿度の変わる季節の中でその都度絵の具を調整され、紙の素材や色にあわせて文様を手摺りされている唐紙。人の手から生まれた事による自然と湧き出るあたたかさがあわさり、より周りに伝えたくなりどんどん数珠繋がりで広がっているように思います。
「思い入れをいれてはいけない」と千田堅吉さんのお言葉から、文様を後世に伝えられる強い意思が伝わってきます。
「文様・デザイン・意匠は聖なる印である」(鶴岡さんのお言葉)と仰られており、とても勉強になりこちらの映画を通してまた文様の見方が変わりました。
自然と調和しながら次々と生まれてくる映像や音、また京都のあらゆる伝統文化を通じて、美しい文様から届いてくるメッセージが心に響きます。
舟田 潤子様 銅版美術家
古来より人類は文様を作ってきました。
それは、日用品のアクセントになるだけでなく、時には時代を超えて使われ、遠くの文化圏にまで伝えられることもあります。何故これほど大事なのでしょう。
誰でもスマホで動画を撮る時代にあって、YouTubeともテレビ番組とも異なる手法をとったドキュメンタリー映画「フィシスの波文」。
その謎に、静かに、そしてゆっくりと迫っていきます。
劇場の大きなスクリーンに集中し、目を見開き、耳を澄ましていないと伝わらない何かがこの映画にあるように感じました。
多くの方がご覧になれる機会が生まれたら、本当にいいですね。
ジョー スズキ様 デザインプロディーサー/文筆家
メキシコ在住の彫刻家の矢作隆一です。このドキュメンタリー映画を観て、文様の中に壮大な時間が流れていることを知りました。
しかも時を超えた自然の摂理が反映されているのです。
おそらく日本人は生活空間に永遠の自然を文様として取り込んできたのでしょう。そして今でも作り手は一刻一刻と変化する自然を感じながら、自意識を消し何かに導かれるように唐紙を仕上げて行きます。
自然と一体となり出来上がった唐紙は、新たな波文を生み出す最初の一滴となるのだと思います。
矢作 隆一様 彫刻家/ベラクルス州立大学造形美術研究所研究員、神戸芸術工科大学客員教授
この映画は美しい映像と音楽にただ浸っている事を許さない。あぁ美しいなと、映画の世界に浸っている間に、日常のすぐ隣というか、日常に覆い被さっている別の階層に連れて行かれてしまう。それはロゴスの世界に生きていると忘れてしまいそうになる、自然そのものとしてのフィシスが、文様という半自然の状態で映画の中に散りばめられており、それが自分の内なる自然と呼応する。
そしてフィシスの波文に撫でられて、目を覚まし出した身体に、たくさんの活火山と、大陸プレートの継ぎ目に存在している、フィシスの肉体の上で暮らす様な日本において、決して忘れてはいけない感覚を、この映画は父性と母性の両方から届けてくれる。
まるで古代の洞窟儀礼のような、この映画の形をした何かは、現代に噴出した古代性の間欠泉。
丸裸になって湯あたり覚悟で観てほしい映画です。
相良 育弥様 株式会社くさかんむり代表取締役/茅葺き職人
「フィシスの波文」はドキュメンタリーでもなく教育映画でもない。
前者なら前面に据えられる人間や出来事は後景に退いて、その人間が多様な時代や地域、場面で産み出してきた文様(パターン)が主人公となる。
人間的ドラマを期待するなら失望するかも知れない。
しかしさまざまなパターンに内在するドラマ、つまり外的実在である形象のたてる波文が、そのまま人の心の内なる波文であるという感情的な真実だけを軸に、飛躍し、裂けめをこえていく映像はとてもスリリングだ。
後者ならミステリーの結末のように用意されるはずの専門家による結論はあらかじめなく、不在の結末をめぐる制作者の執拗な問いだけが純粋な波動のように伝わってくる映画だ。
数学者であり建築家だったC・アレグザンダーの予言者的文体による著作『時を超えた建設への道』を思い出した。
大倉 宏様 美術評論家
2023秋。文様の映画を作った、上映活動を始める、と熱く語る女性に出会った。「フィシスの波文」のプロデューサー河合早苗さんだった。
私は子供の頃は手芸部。プロヴァンサルプリントの仕事をしたことがあったり、着物好きの母の影響があったり、要は布、柄フェチ。にいがた映画塾という市民活動をしていることもあり、自然と話が合った。
知人の絨毯屋さんやギャラリーに紹介しようとお連れしては、文様で盛り上がる人たちを見た。文様は、人にエネルギーを与える。
映画は普遍的で人間の精神的な世界に誘われるロードムービーに仕上がっていた。
文様は人の暮らしに使われて生きる。映画はスクリーンへ映されて生きる。
時に映画は、文様のように脳内に反復し、心に刻まれる。この映画が国を越え、時を越え、スクリーンへ映され続けてほしい。
五十嵐 奈穂子様 市民団体にいがた映画塾運営委員
映画が誕生して120年。35mmフィルムからデジタルに代って10数年。撮影機材も、映写機も変化し続けています。
デジタルに代って、製作本数が、格段に増えました。観方も、ネットフリックス等、何処でも、何時でも容易に機会が拡がりました。
従って、劇場で公開する作品数が限定されます。その難しさに固執して、「フィシスの波文」を後一歩で公開する所迄持って来た方がいます。河合早苗さんです。
新潟まで足を運び「シネ・ウインド」の狭い扉をコジアケました。新潟高校の小生のズット後輩らしく、部活は、フェンシング部。男子生徒の憧れの的。突きの名手。前進しか無く、後退はしない。
混迷した世界を一撃するに、原始の言葉の無い人間社会では、文様こそが一番の伝達手段。今こそ、それを自覚し、感動しよう!
齋藤 正行様 シネ・ウインド(青山76期)